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Secret!買取業界の裏話

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マトラッセやカメリアを生んだシャネルってどんなブランド?

2018年、ファッション業界に大きな衝撃が走りました。シャネルがこれまで秘匿していたブランド財務情報を突然公開したためです。しかも、公開された2017年決算は、なんと業界最大手のルイヴィトンと肩を並べるほどだったのです。

シャネルと言えば、日本では「シャネラー」でお馴染みの超有名フレンチブランド。しかしながら日本では一時売上が低迷したり、最近ではルイヴィトンを中心としたLVMHグループに買収されるのでは、なんて噂が付きまとったりしていました。この度の決算公表は、買収の噂を一層するとともに、変わらず世界のモードリーダーであることを見せつける狙いがあったようです。その後も、香水の新作や腕時計・宝飾の売上高でさらに存在感を高めてきました。

そんな勢いあるシャネルですから、もちろん買取市場も堅調です!使わなくなったマトラッセのショルダーバッグやカメリアのお財布を売ろうかな?と思っている方にとって、この勢いは朗報ですね。

そんなシャネルの勢いと人気の秘密がよくわかる、シャネルの歴史やこだわり、魅力をご紹介いたします!

1.  シャネルってどんなブランド?

まず初めに、シャネルの概要、歩んできた沿革などをご紹介いたします。

① シャネル会社情報

ABOUT
設立年:1909年
創業者:ココ・シャネル(ガブリエル・ボヌール・シャネル)
本社所在地:フランス パリ
現CEO:アラン・ヴェルテメール,ジェラール・ヴェルテメール(ヴェルタイマー・ヴェルハイマーなどとも表記)
事業:アパレル,オートクチュール,時計・ジュエリー,香水・化粧品など

② シャネルの始まり

「かけがえのない自分になりたいなら、常に他人と違っていなくてはならない」「シンプリシティは全てのエレガンスへの鍵」「贅沢は下品の反対語」

これらは、ある一人の女性が残し、今なお格言としてしばしば引用されるセリフです。

その女性は、ココ・シャネル。ブランド「シャネル」の創業者であり、同社の歴史は彼女の生き様とともにあった、と言っていいでしょう。2008年には彼女の生涯が映画化されましたね。

ココ・シャネルの本名はガブリエル・ボヌール・シャネルです。1883年、フランス西部の田舎町で生まれ、その後孤児院を経て、お針子の仕事をこなしながら踊り子を目指していました。ココという愛称は、彼女がミュージック・ホール(キャバレー)で歌っていた歌の題名から付けられたと言います。

その後芸能界への夢を諦め、愛人であったフランス将エティエンヌ・バルサンとともにパリ郊外へ移り住みます。

そこでファッションデザインに目覚めると、次なる愛人であるカペルにせがんでパリに帽子屋をスタートさせることとなりました。1909年のことです。場所はヴァンドーム広場に近いカンボン通り。これが、その後モード史に一石を投じることとなる、シャネルの第一歩です。ちなみに今でもシャネルの本店はカンボン通りに位置しています。

事業は軌道に乗り、1913年には、モードブティックの開設に至りました。

ココ・シャネルは当時から、冒頭でご紹介した名言を体現するようなデザイン・コンセプトを一貫して持っていました。「現在の流行(モード)にとらわれない」「シンプルこそエレガンス」「無駄の一切を排除する」ということです。

また、「古い価値観に捉われない女性像」「中性性」をテーマに、これまで考えられなかったマニッシュなスタイルを生み出していきました。

今でこそ、「シンプルイズベスト」「レスイズモア」は珍しくありません。しかしながら、20世紀初頭のヨーロッパは、ベル・エポックの時代です。ベル・エポックとは「良き時代」という意味で、第一次世界大戦前のパリの繁栄期を指しており、女性のファッションは華やか一辺倒。羽やリボンをふんだんにあしらった帽子や、フリルのついた艶やかなドレスが流行していました。

また、「女性は男性に守られるもの」という概念が一般的で、男性性をフィーチャーするようなファッションなど、あるはずもなかったのです。

しかしながら自由奔放なココ・シャネルが、その自由な発想から「シンプル」を主軸に据えたモードを次々と生み出してしまいます。

例えば、リトル・ブラック・ドレス。黒は喪服でしか用いられないカラーでしたが、シャネルは社交界向けのドレスとして打ち出します。もちろん、フリルだとかリボンだとか、女性らしさはありません。また、紳士服に用いられていたツイード素材を使ったレディースウェアを開発したことも世間を驚かせました。

第一次世界大戦下、男たちが戦地に赴き、女性が働きに出るようになった時代背景が追い風となり、その鮮烈なまでの個性は爆発的なヒットを飛ばすこととなります。

ちなみに以後、黒やツイード生地はシャネルを象徴するアイコン的存在となりました。

デザイン面だけに留まらず、働く女性が動きやすいようにと、ジャージ素材を使ったレディースウェアを製品化。また、男性向けだった麦わら帽子をレディース向けで開発したうえ、パンツルックや女性のためのスポーツウェア、ショルダーバッグなど、レディースファッションを続々開拓・販売していきました。

なお、シャネルで最も有名な香水No.5が製品化されたのもこの頃です。ちなみにNo.5のボトルはヴァンドーム広場の形状から着想を得たと言います。

シャネル人気はヨーロッパ全土で瞬く間に火が付き、すぐに大企業へと成長していきました。

ココ・シャネルは20世紀最大のファッションデザイナーであり、モードの革命家であったと言えるでしょう。

③ ブランドの休眠と復活

シャネルは恋多き女性でした。その奔放な生き方こそ、新しい価値観を生み出す源泉のようなものだったのかもしれません。しかしながらそれが裏目に出る事件が起こります。

実は、ココ・シャネルは表舞台から姿を消していた時期があります。1940年前後、既にシャネルの名は世界的に広まっており、ブランドとしては成功していましたが、第二次世界大戦が勃発します。その影響から、シャネルは一部店舗を除いて事業を閉鎖することとなりました。

1940年、パリがドイツ軍によって占領されると、今度はドイツ将校と交際を始めます。しかしながら戦況が逆転しドイツ軍が降伏に向かうと、パリ市民によるココ・シャネルへの批判が高まり、彼女はスイスへ亡命することとなります。

ちょうど同時期、ココ・シャネルがブランドの事業拡大を始めるにあたり提携したヴェルテメール一族が、アメリカでシャネルの香水を販売していました。ヴェルテメール一族は経営でココ・シャネルとは袂を分かっており、両者の合意のうえではないアメリカでの販売でしたが、やはりシャネルの実力の高さゆえでしょう。同国内でもヒットを遂げ、瞬く間にシャネルの名を広めていくこととなります。

戦後の混乱期から立ち直りつつあった1950年代、ココ・シャネルとヴェルテメール一族は和解し、再びシャネル事業を復活させます。1954年のことでした。その翌年、シャネルスーツを発表したことから、モード・オスカー賞を獲得します。

伝説のモードリーダーの復活により、再びシャネルは市場での存在感を高めていきます。

しかしながらフランス・パリ本国では、シャネルのカムバックはあまり受け入れられませんでした。一方で火が付いたのが、ヴェルテメール一族が販路を拡大していたアメリカ国内です。同国の有名人でシャネルの愛用者が多かったことも一つの要因です。

例えばマリリン・モンローの逸話は有名です。「寝るときに何を着けているの?」の質問に、「シャネルのNo.5」と答えた、と言うのです。また、故ジョン・F・ケネディの妻であるジャクリーン夫人が、シャネルスーツを愛用していました。

ところでブランドが再び舵を切った1954年、ココ・シャネルは既に御年70歳を超えていました。そこから再び経営に乗り出し、モード最先端に上り詰めたという事実は、ファッション業界広しとは言え、彼女をおいてなかなかない事例です。

ココ・シャネルは、常々「モードは熱狂的に議論しなくてはならない」とも言っていました。その言葉の通り、シャネルはいくつになっても、どんな状況になっても、常にモードについて徹底的に考察していたのです。

1971年1月、ココ・シャネルは当時住居としていたカンボン通りのリッツ・カールトンで87歳の生涯を終えました。部屋には書きかけのデザインがまだあったと言います。

カルティエやピアジェ、ブルガリといった世界の名だたるハイブランドが一堂に会し、自身の傑作の一つNo.5のモチーフにもなったヴァンドーム広場を眺めながら最期を迎えたということに、彼女の生き様が現れているように思います。

④ ココ・シャネル死後

ココ・シャネルの死後、ブランドをヴェルテメール一族が100%保有することとなります。

しかしながら強烈なリーダーを失ったシャネルは、一時期低迷しました。当時はオイルショックやベトナム戦争など、世界情勢が不安定であったことも大きな要因でしょう。

当時の経営手腕が上手くなかったことが重なり、シャネルは「過去の遺物」「二流ブランド」として扱われるようになりました。ちなみにあのNo.5ですら、ドラッグストアなどで売られていた、と言います。

この状況を憂慮し、改革を決心したのが現在シャネルのCEOを務めるアラン・ヴェルテメール氏です。氏は巧みなブランド戦略と優れた広告で、二流に落ち込んでいた名声を復活。また、化粧品事業やプレタポルテ事業など新しい分野を開拓し、事業を立て直していったのです。

さらに、シャネルの現在の繁栄へと導いた一人のデザイナーがアーティスティック・ディレクターに就任します。その名はカール・ラガーフェルド氏。1983年のことでした。いくつかのオートクチュールメゾンやクロエ、フェンディなどでデザインを歴任してきた、実力派です。

氏の詳細は「デザイナー」の項で後述しますが、カール・ラガーフェルド氏は「時代に即したモードを作る」のではなく、「ココ・シャネルの伝統を復活させる」ことに専念しました。カール・ラガーフェルド氏は、シャネル製品のデザイン、魅力、風合いなど、全てを知り尽くしていたのでしょう。マトラッセやツイードスーツ、バイカラーのシューズなど、ココ・シャネル時代の名作をリバイバルします。

もちろん、ただ復活させるだけでなく、現代風に洗練し、さらに新しいモードをシャネルベースで作り上げていくことに挑戦したのです。

その試みが成功したことは、現在のシャネルを見れば一目瞭然でしょう。

カール・ラガーフェルド氏は2019年2月に他界しました。しかしながら亡くなるまでシャネルのヘッドデザイナーであり、デザインし続けたことは、ココ・シャネルと一緒ですね。

カール・ラガーフェルド氏がシャネルで行った復活劇は、多くのファッションブランドのビジネスモデルとして語り継がれています。

⑤ シャネルの日本への進出

波乱万丈ながら、着々と世界に名を広めてきたシャネル。

日本では、1960年代頃から輸入販売が開始されました。1980年代に日本法人ができ、ブティックが東京 銀座にオープンしたのは1994年のことです。

当時の日本は平成を迎え、バブル~バブル崩壊、それに続く「失われた10年」を過ごす平成大不況時代でした。しかしながら女性たちの間でファッションは廃れないもの。松田聖子さんや中森明菜さんといったアイドルがシャネルを身に着けているのを見たファンたちから、瞬く間に人気が広がっていきました。

当時は、シャネルを愛用している人を「シャネラー」と呼び、一種の社会現象とまでなってしまったほどです。

シャネル人気は大学生やOLなど、若い世代にも波及していくようになります。むしろ、この世代が牽引していたと言っていいかもしれません。

マトラッセでも、CCマークが協調されたものや、ヴィヴィットな色合いが高い人気を誇ったものです。また、ツイード生地の重厚かつ洗練されたジャケットやスカートも、道行く女性がよく着ていたと記憶しています。

認知度が上がった一方で、「ラグジュアリーブランド」としての格はやや落ちてしまう、という苦境に立たされることにもなります。ルイヴィトンやエルメスが大人の女性の、落ち着いたハイブランドだとしたら、シャネルは若い子でも着けられるブランド、といった対比ができあがってしまったのです。

もちろんそれ自体は悪いことではありませんが、シャネルが目指すブランドイメージとはかけ離れたものでした。

そのため、シャネルは徐々に日本での売り上げを落としていくこととなります。

しかしながら、当時のシャネルのアイテムが悪かったかと言うと、そのようなことは一切ありません。むしろ、1990年代のシャネル製品を「ヴィンテージ」として、再び注目が集まるようになっています。

そう、製品さえ良ければ顧客はまた戻ってきます。

それを証明するかのように、シャネルが2000年より販売した腕時計「J12」の大ヒットを皮切りに、再びラグジュアリーブランドへの道を歩むこととなります。

また、日本市場をよく研究し、日本人向けの製品をラインナップしたり、魅力的な広告を打ち出したりしたことから、むしろ以前よりも勢いを増しているようにも思えます。

現在では、東京、大阪、名古屋、札幌など、全国各地にブティック展開を果たしています。

2. シャネルのブランド規模感と最近の活躍具合

マトラッセやカメリアを生んだシャネルってどんなブランド?

シャネルは現在全世界に販路を開き、また、業界でもトップクラスの売上高を誇ることは、お話した通りです。

近年ではロングセラーの香水やファッション事業で意欲的に新作を発表したり、腕時計・宝飾品のラインナップを拡大したりと、まさに飛ぶ鳥落とす勢いでシェアを拡大しております。

なぜ、シャネルはこれほどまでに成功しているのでしょうか。それは、ココ・シャネルから受け継いだ巧みなマーケティング戦略と、誠実なM&A戦略に秘密が隠されています。

昔からココ・シャネル自身が広告塔の筆頭に立ち、自社製品を最も美しく、最も広めやすい手法で魅せてきました。シャネルが一代で老舗にも負けないような大企業となったのは、製品のすばらしさもさることながら、時代の流れをしっかり把握し(第一次世界大戦という女性進出のキーエポックをきちんと読んでいたことからも明瞭)。かつ、上手に名声を広めたことにあります。

実際、時代があと10年早かったり、宣伝を行っていなかったりしたら、シャネルは「ただの地味な服」で終わっていたかもしれません。

そこを、美しい女性がスラリと洗練した着こなしをする、という相乗効果を用いて、大衆にシャネルの魅力を伝えていったのです。

その手腕は今も健在。現代で言えば、ソーシャルメディアを駆使したプロモーションが本当に巧みです。

近年SNSや動画メディアなどは、ブランドにとって大切な広告媒体となっています。そんな中、シャネルの公式YOUTUBEチャンネルの会員登録数は多くのブランドの中でもトップクラス。動画のメリットを活かし、ハイクォリティかつ高いデザイン性が一目でわかるCMづくりに多額の費用をかけ完成させているのです。しかも、動画の投稿数も、他社とは群を抜く膨大さです。

この動画の手腕はシャネルの公式ホームページでも使われており、ブランドヒストリーなどがフィルムを通して消費者の視覚・聴覚を刺激します。

加えて、M&Aの見事さもシャネルの成功に一役買っています。

現在、ファッション業界ではM&Aはブランド戦略のメインです。巨大なコングロマリットを形成し、小さい企業は巨大資本に入ることで安定した基盤を持つことができます。一方で親会社が決定権を持つことも多く、ブランドの独自性が損なわれる、といった意見も存在します。

ファッション業界の大手コングロマリットは、LVMH(ルイヴィトン・モエヘネシー)、グッチ率いるケリング、時計・宝飾ブランドが中心のリシュモングループが挙げられます。そして、シャネルはこのいずれにも属していません。シャネルは、自社でM&Aを行い、小規模ブランドを中心に提携・協業しているのです。

例えば1985年以降、フランス名門の刺繍工房「ルサージュ」や靴工房「マサロ」など買収した計10の技術力を終結させます。そして、メティエ・ダールラインを2002年よりスタートさせました。メティエ・ダールとは、フランス語で「職人たちの芸術」という意味です。オートメーションでは作れないような製品が特長で、大量生産とは無縁の、クラフトマンシップ溢れるシリーズとなります。

また、名門時計メーカーやスイムウェアメーカーなども傘下に加えています。

ここで注目してほしいのが、シャネルは敵対的買収をしない、ということ。むしろ、買収したブランドの名前やコンセプト・理念をそのまま活かし、共存していくかのようなM&A手法なのです。

もちろん資本提供するからには、対象のブランドのノウハウは吸収します。しかしながら立場は対等に近く、まさに「提携」といった趣なのです。

そのため、決して身売りはしない、と言っていた独立ブランド(時計メーカーのモントル ジュルヌ)も、シャネルになら、ということで株式取得を許しました。シャネルは、M&Aを「企業を大きくするため」というよりも、「未来の技術力の発展」への投資として捉えているのかもしれません。

こういった戦略はシャネル自身の技術力を向上させるだけでなく、それぞれの名門と呼ばれる伝統企業のノウハウが、後世までシャネルを通して語り継がれる、ということを意味します。実際、シャネルはオートメーションには出せないとして、フランス伝統の装飾技法やオートクチュールを大切にしています。

これは、ファッション業界にとっても、非常に意義深いことと言えます。

3. シャネルのこだわりを知ると高価買取の秘密がわかる

シャネルが高く売れるのは、人気があるから。高級ブランドだから。そのいずれも正解ですが、人気・高級ブランドであり続けることは簡単ではありません。

では、なぜシャネルがこれほどまでに人々から支持を集め、1909年の誕生から今に至るまでラグジュアリーを実現できてきたか。それには、同社の二つのこだわりが要因としてあります。

それぞれをご紹介いたします。

① 変わらないデザインアイコン

恐らく、シャネルの製品を一つ思い浮かべてください、と言われれば、容易にそれが可能でしょう。

なぜなら、シャネルは現代に即した商品展開も行いますが、決してベースとなるいアイコンデザインを大きく変えることがないためです。ブランドアイコンは、アイコンであるがゆえにコロコロ変わるものではない、ということをよく知っているのでしょう。

シャネルの人気ラインと言えば、以下のようなものがあります。

マトラッセ
カメリア
マドモアゼル
ボーイシャネル
腕時計のJ12

例えばマトラッセは独特のキルティングを、カメリアは花モチーフをすぐに思い浮かべられますね。これは、デザインアイコンが一貫して守り抜かれているためです。

もちろん時代の要請やモードを牽引する際、アップデートされることはあります。カール・ラガーフェルド氏も、ココ・シャネルの伝統的なデザインを踏襲しつつも一新させました。しかしながらキルティング生地やゴールドチェーンがあしらわれたショルダータイプのバッグなど、ベースは変わらぬアイコンとなります。ちなみにCCマークも、ココ・シャネルの存命時代から変わっていません。

こういった変わらないアイコンは、ブランドにとってはアイデンティティ。また、消費者にとっても、「シャネルを持っている!」と一目で判別できることとなり、ステータスや知名度が重視される高級品においては欠かせない要素です。

さらに言うと、変わらないということは、時代の流行に流されないということ。そのため、一過性の人気で終わらず、末永く愛され続けるということに繋がります。これは、買取市場においては非常に大切なことです。買取市場は中古品やヴィンテージ品がメインとなり、型落ちモデルも少なくありませんが、定番の品は価値が落ちづらく、買取額が高値となる傾向にあるのです。

もう一つシャネルのアイコンがありました。それはシンプルであること。シンプルであるがゆえに、強烈に「シャネルであること」を主張できるのが、やはりシャネル人気の一つのコンポーネントでしょう。

② 高い技術力による上質な製品

シャネルの製品のほとんどは、自社工房で生産されています。しかも、その上質さには定評があります。

この理由の一つには、やはりM&Aによって名門や有名ブランドの技術・ノウハウを培ってきた、という経緯が大きいのでしょう。先ほどご紹介したメティエ・ダールラインを発信するのは、買収した工房を集めて創設したパラフェクシオン株式会社の手によるものです。そして、カール・ラガーフェルド氏はこの工房集団を「サテライト」と称し、地球を軸に回る衛星のように、上下関係のないパートナーシップを築いてきました。

ちなみにこの対等性がわかる一つのエピソードとして、シャネルは傘下の工房が、他社からの仕事を請け負うことを許可していると言います。

工房の独自性や技術力を尊重し、デザイナーたちのアイデアを技術によって具現化してもらう。この営みによってシャネルは上質でラグジュアリーな銘品を世に輩出しているのです。

こういった伝統技術を大切にすることは自社の財産になることはもちろん、技術が温存され、長期にわたって良い製品を作り上げることができる、ということ。誰よりも技術の大切さを理解しているシャネルだからこそ、できる試みの一つです。

なお、こういった高い技術力ゆえの高い品質というのも、買取市場における人気ブランドの条件としては欠かせません。

経年による劣化が少なく、また、長く使うことが前提のため、壊れても修理対応できるケースが多いためです。

4. シャネルの有名デザイナー

マトラッセやカメリアを生んだシャネルってどんなブランド?

シャネルの有名かつ鮮烈なデザイナーと言えば、まずはココ・シャネルでしょう。彼女のファッションデザイナーとして、そしてモードリーダーとしての辣腕ぶりは、前述した通りです。

シャネルを語るうえで、もう一人欠かせないデザイナーがいます。それは、カール・ラガーフェルド氏です。銀髪ポニーテールにサングラス×指なし革手袋と言ういで立ちでお馴染みですね。「皇帝」とまで呼ばれるほどの人物です。

ラガーフェルド氏は1933年、ドイツに生を受けました。その後渡仏し、イヴ・サンローランなどとともにファッションを学びます。

すぐに頭角を現し、若干17歳にしてピエール・バルマン、後にジャン・パトゥ、クリツィアなど、名門オートクチュールで実績を積みました。

一度ファッション業界から離れるものの、1967年に復帰。クロエやフェンディでの経歴を経て、1983年よりシャネルのアーティスティック・デザイナーに就任しました。

カール・ラガーフェルド氏は前述のように、ココ・シャネルの伝統をリバイバルしつつ、全く新しい解釈を付け加えます。現代のトレンドをマッチさせたのです。また、プレタポルテラインにも進出し、シャネルをトップブランドとして世界中に認知させました。

ラガーフェルド氏はその経営手腕が話題になることが多いですが、デザイナーとしても希代の天才と言う他ありません。シャネル製品の中でも、カール・ラガーフェルド氏がデザインしたものは入荷しても即完売。大胆なデザインと秀逸なマーケティングを融合させ、その時代時代の女心をつかむ傑作を作り続けていきました。1984年には自信のブランド「Karl Lagerfeld」を創設し、成功を収めています。

氏は、毒舌家として知られていますが同時に自身に対してもストイックで、常にファッション研究へ熱意を惜しみませんでした。

新しいチャレンジにも果敢でした。

例えば積極的に他社とのコラボを行い、2002年にはデニム、2004年にはH&M、果てはドイツの高級ぬいぐるみブランド・シュタイフと提携し、魅力的なコレクションをラインナップします。そのいずれも売れ行きは絶好調で、多くの産業のメーカーがカール・ラガーフェルド氏と組みたがって止まなかったと言います。

カール・ラガーフェルド氏の他界後は氏の右腕だった女性デザイナー、ヴィルジニー・ヴィアール氏が後を受け継ぐこととなりました。

ラガーフェルド氏の死後、シャネルのユーズド市場が高騰し、インターネット上の人気検索ワードも「カール・ラガーフェルド」が急上昇したそうです。今なおレジェンドとして、ココ・シャネルと並ぶファッション業界のモードリーダーであることが見てとれます。

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